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北海道新聞掲載「朝の食卓」総集編

北海道新聞にて2010年1月14日から2011年12月16日まで全17回連載された「朝の食卓」の総集編です。
全記事をテキストでご覧いただけます。

2010

01

2010.01.14

ニッカポッカ

 外壁工事の仮設足場から元気よく降りて来た若い職人は、ニッカポッカをはいており、ヘルメットからはみ出た髪の毛は茶色に染められ、耳に複数のピアスがついていました。

 まるで不良少年がそのまま外壁材の取り付け職人になった様相です。施工指導で訪問した際、「頑張ってるね」と問いかけをしたら、「メッチャ忙しい」と、また今風の若者の言葉が返ってきました。

 ニッカポッカとは、作業着として動きやすく、下半身を締め付けないように腰から下をダブダブに作って足首で絞り込んでおり、9分ズボンと言う人もいます。

 私の昔の職業である高い所で仕事をするトビ職は、ひざ元を締め付けた7分ズボンをはいていました。競馬の騎手がはいている乗馬用は、もうすこし短いようで、さしずめ4分ズボンとでも言うのでしょう。

 それぞれの仕事を安全でしやすくするために作業衣服の機能とデザインがあるようです。

 ニッカポッカをはいた茶髪の外壁職人の若者を見ていたら、やはり動きに寸分の無駄がありません。資材を肩に担いで足場を上る彼に、「気を付けて!」と声を掛けてみました。

 振り返ってニコッと笑った彼の屈託のない笑顔は、あどけなくとも、頼りがいのある顔にみえたものです。

02

2010.03.10

キャリアウーマン

 私たちが家を建築する際、公的な標準仕様以外の手法を採用する場合は、公的機関の工法認定を受けなければ省エネ特典なども受けられません。

 関係機関には、認定申請を受けるため訪れた際の担当官は、きれいな女性でした。ところがその女性担当官から、技術構成の説明資料があいまいだと厳しい指摘を受ける事になります。

 なぜこの技術が標準仕様の性能を上回り、更には安価に施工出来るのかと、徹底した技術チェックでした。

 書式変更などを行い、受理されたのが役所の就業時間をかなり過ぎてからでした。宿泊先に戻ろうと電車に乗り、発車のベルが鳴ってドアが閉まるギリギリのところに、息を切らして乗り込んで来たのがあの女性担当官です。

 たまたま空いていた私の隣の席に座り、目が合った瞬間、彼女のひざの上のカバンから書類と、幼い子供用の赤い手袋と毛糸の帽子が床に散乱してしまいました。

 書類を拾うのを手伝って座り直した際に彼女は、伏し目がちに「子供を迎えに行くのです」。

 仕事に厳しいキャリアウーマンに、母親の優しさを見た気がしました。ちなみにその時の工法申請は、申請書通りに認定交付されました。

03

2010.04.20

海外留学の青年

 空港搭乗者ロビーのガラス越しに泣きそうな顔で手を振る母親と思われる人に、背を向けて飛行機に乗り込んだ青年がいました。彼は私と同じ飛行機の窓側、私は通路側の座席につきました。

 飛行機が滑走を始めた途端、それまで外をじっと見ていた彼の目から大粒の涙があふれ出て、しゃくり上げるような嗚咽が聞こえました。そっと渡した私のハンカチが、くしゃくしゃになってしまうくらいでした。

 到着した空港で互いの乗り継ぎ便の待ち時間に彼と話をすると、母親の強い勧めでイギリスに留学することになったそうです。

 それが縁で彼は、留学先から私が毎日配信しているブログ「福地脩悦・社長日誌」を欠かさず見てくれてメールの便りもくれるようになりました。

 母一人子一人なのに留学を勧めた母親を憎たらしく感じ、その心をわかろうともせず、空港での態度を悔やんでいたようです。 彼は、2年間の留学を終え、就職のためこの3月に帰国したようです。

 彼のイギリスからの最後のメールには、成田空港に迎えに来ると言う母親を、自分の両腕でしっかりと抱き、声を出して感謝の言葉を述べますと書いてありました。

 2年ぶりに再会した母子の歓喜の光景が目に浮かびます。彼は、強くて賢明な母親の思い通り、着実に成長したようです。

04

2010.06.01

住宅110番

 家の新築後に建て主さんから建築業者への連絡は、そのほとんどが不具合を知らせる内容です。

 業者は、対応費用を抑えるため責任回避をはかりがちです。大金を支払った建て主さんは困惑します。 私たちはこのような建て主さんのため、ネット相談「住宅110番」というNPO法人を開設しています。

 北海道の住宅雑誌「リプラン」の編集長が主宰し、私も含む建築専門家がボランティアで回答作業をしています。メールのやりとりですが、苦悩する建て主さんの様子は分かります。

 家づくりでは、外観、内観やキッチンなどは良くても、見た目に映らない、住んだ後の快適性、経済性などへの配慮が希薄になっているようです。

 内容は、住んでから感じる、寒い暑い、結露カビや冷暖房費用に関したものが多いのです。壁の中や床下など、見えない部分の断熱材などで温熱性能が決まります。

 住んだ時点から建て主さんと業者側が協力し合いながら、本当の家づくりが始まります。私は、回答書の最後に「施工業者さんと協力し合いながら建てた家をはぐくんで下さい」と添えることにしています。

 業者側の立場も考慮した進言が効いたのか、「何とか解決できました」との御礼メールは、私達ボランティア回答者を安堵させてくれます。

05

2010.07.16

素っ裸の社長たち

 ある出張の際、ホテルの屋上にある露天風呂の温泉に浸りながら満天の空を見上げ、ほおをなでる夜風で昼の暑さで疲れた身体を癒やしていました。

 そこへ私と同年代の男性が「こんばんは!」と、入ってきました。彼も仕事から解放され、露天風呂にやってきたようです。

 一緒に夜空を眺めながら穏やかな彼の話し方につい聞き入ってしまい、私たちの住宅業界とは違う異業種の世界を知る事が出来ました。後日、うかがった会社名を思い出し、ホームページを見たら一部上場の大企業で彼はそこの社長でした。

 露天風呂での素っ裸の彼は普通のオジサンでした。しかしネット写真の彼は、威風堂々とした風格と貫禄を持っています。全国の社長の数400万人、大人20人に1人が社長、まさに石を投げれば社長にあたりそうです。

 しかし、社長の肩書はあっても、人をひき付ける人格者で「社長力」を備えた人は極めて少ないようです。

 私のような零細企業の社長も、露天風呂であった上場企業の社長も、虚業で大もうけの成り金社長も、どんな社長も裸になれば皆同じ人。

 背広を脱ぎ、裸になって風呂に浸り、世間話をしてみれば、その人の真の人柄や人格などが、スーッと透けて見えるような気がするものです。

06

2010.09.03

ホームレスの友人

 時々泊まるホテルの部屋から見下ろすと、向かいの銀行シャッター前に段ボールハウスを組み立てるホームレスがいます。

 ある日、夜9時半ごろ、ホテルに着くと段ボールハウス組み立て中だったその男性と話ができました。彼は理系のエンジニアだそうで、理知的で聡明ささえ感じさせます。ホームレス暦3年目、朝の7時ごろ、掃除の人が来る前に片付けて立ち去るのだといいます。

 「おなかをすかした人の瞳は澄んでおり、自分もホームレスになってから顔の険が消えた。邪念が消えると瞳が澄み、今の自分の顔と目が好きだ」と語っていました。

 仕事に忙しい自分の目は、彼のように澄んでいないのではないか。

 その後、私は、彼と話をするのが出張の楽しみになりました。段ボールハウスの前に2人しゃがみ、話をすると彼の見る社会観を知ることができます。

 ある日、彼は「間もなくこの生活も終わりです」と、もの悲しい顔で語りました。

 翌朝、彼は7時前に自転車に荷物をまとめて朝もやの中に去って行きました。

 彼の人生に別な光明が見えたとすると、あの澄んだ目はどうなるのか。

 その後、何回もそのホテルに泊まったのですが二度と彼に会うことはありません。

07

2010.10.04

お子様一人旅

 飛行機の3席並びの窓側席に座った夫婦と思われる2人は、何故か不機嫌な顔です。機内誘導の仕方がまずいと客室乗務員にあたり飛ばしています。

 1席残った通路側の席に、乗務員に連れられた「お子様1人旅」の女の子が着席した時は、夫婦そろってなおさら嫌な顔をしていました。

 6歳くらいの女の子はとても愛くるしく気遣いのできる子供でした。

 飲み物サービスの時は、夫婦の前テーブルを出してあげ、身体をあけて飲み物を出しやすくしています。空になった夫婦の飲み物の紙コップを乗務員にさりげなく返し、その動作がとても自然でかわいいのです。

 最初は苦虫をかみつぶしたような顔だった奥さんの口からアリガトウ。少女は、いっそうこぼれるような笑顔を見せます。

 私は、夫婦の顔がしだいに明るくなる様子を、通路を挟んだ席から見ていました。

 絵本を見ている少女に夫婦は何やら話しかけて互いにほほ笑んでいます。純真な少女の笑顔は、無機質な時間を過ごしてきたと思われる夫婦にとって、和みの大切さを気付かせる機会になったでしょう。

 到着し、お子様一人旅の少女は、乗務員と手をつなぎ、飛行機から降りて行きます。女の子を名残惜しそうに見送る夫婦の顔は、たった1時間半前みたいな顔ではありません。

08

2010.11.20

ママの泣き笑い

 「お久しぶり!」。訪れるたびに取引先の住宅資材販売店の奥さんは、いつも元気な声で迎えてくれます。

 この家には、障害を持つ12歳の男の子がおり、早朝から深夜までその子の世話、営業や事務、そして家事をこなしています。

 ところが先日、元気がありません。尋ねたら、知り合いから「頑張って」と言われたのだと。これ以上どう頑張れと言うのか。彼のために自分の時間がとられ心身ともにもう限界・・・。「頑張って」が腹立たしくなり、思わず憎まれ口をたたき、心が折れて涙があふれ出てしまったといいます。

 それを聞いていた、車いすの男の子はいつもの無邪気さが消えうせ、しょんぼりとうなだれていました。元気で明るいママが落ち込んでいたからでしょうか。

 私は家事調停委員をしていて、その研修資料にあった「障害児を持つ家庭は平和な家族が多い」という統計を教えてあげました。障害児がいることで家族が協力し合い、自然に心が通じ合い、家庭が平和になる。

 彼女は、自由がきかない彼のため、努めて明るく元気に振る舞い、それが彼女の持ち味となり、店も繁盛させています。彼女は自分自身が息子の存在によって得られていることに気付いたようです。

 その後の彼女の元気さ明るさは以前にも増しているように見えました。

2011

09

2011.01.26

キャンドルリレー

 真っ暗な体育館。1本のろうそくの炎が2本目に点火し、2本が4本、8本と、瞬く間に全校生徒677人の持ったろうそくすべてに火がともりました。

 体育館が淡いあかりに包まれた瞬間、照明が点灯し、最初に目にしたのは生徒全員の達成感に満ちた笑顔でした。昨年秋に私の母校、北斗市立上磯中学校の学校祭のフィナーレで見た感動的なシーンです。

 生徒全員のろうそくに火をつける企画は生徒からの提案。普通なら先生に却下されそうです。ろうが床に落ちる、やけどする、火事が起きかねない。断念させる理由は幾つも見つかります。

 でも、上磯中の教師は「全校生徒の心をひとつにできる」と受け止めました。生徒たちとアルミホイルでろう受けを作り、ろうそくを移動させる順序などを念入りにリハーサルして、問題ないと自信を持って教頭、校長に提案しました。

 学校経営者は、リスクを伴わない学校運営をしたいと思うものです。しかし、たった1人の生徒の理不尽な行為で学校全体が荒んでしまうことを知る上磯中の教頭や校長は、先生たちの声に共感したのです。

 生徒の心に永遠に刻まれたであろうあの幻想的なシーンは、生徒を信頼する先生たちと、学校経営者の勇気ある決断があってこそ。母校の生徒、先生の絆の強さを誇りに思うイベントでした。

10

2011.03.08

無口は男の美学

 私が会社を創業前、鉄骨とび職として一緒に働いた兄弟子が亡くなって10年になり、ご自宅へ焼香に立ち寄ってきました。

 とび職は任侠の世界の流れをくみ、荒くれ者が多くいました。彼も無口で朴訥、口より手が先にでる荒っぽさ。しかし普段は優しくて酒を飲む時も静かにすすり、その姿勢は生涯変わらなかったようです。

 兄弟子夫婦は12歳のまな娘を難病で亡くしており、彼の遺影の隣に愛くるしい写真が飾ってありました。

 家から遠い工事現場では「飯場」と言われる宿舎暮らしをします。彼は飯場で私と2人だけになった時、娘さんが生前、病院から送った手紙を読んでくれました。「元気になれずにごめん。米粒つまめずにごめん。父さん母さんごめんなさい」と。「米粒つまむとはリハビリのことなんだ」と、頬をぬらし、鼻水をすすりながら解説します。その時の彼は、とても冗舌でした。

 私たちのような荒くれ仲間の面倒を見てくれた彼の夫人は、任俠の妻のようでした。今も凛として気品を感じます。夫の知らなかった一面を私から聞き、2人の遺影を見上げる後ろ姿がかすかにふるえていました。

 男の冗舌は、いとしい人のことを語る時だけにすべきなのでしょうか。人前でしゃべる機会の多い私は、そんな美学からは遠いところにいるようです。

11

2011.04.17

ビジネスマンの哀愁

 冷たい春風が吹く街頭の屋台で、背中を丸めて酒を飲む男性の後ろ姿に見覚えがありました。彼は先ほどまで私も参加した大手企業の会議を仕切っていた管理職です。彼の会議進行は理路整然と多くの意見を集約し、見事に方向性を見出します。私とは公私にわたって長い付き合いです。

 いつもはつらつとした彼なのですが、後ろ姿には哀愁に満ちていました。隣に座ると「いらっしゃい!」とオヤジさんの声。彼と同じおでんのちくわとダイコンを注文し、「背中が寂しそうに見えたよ」と話しかけると、こっくりとうなずき、数日前に奥さんが子供を連れて出て行ったと言います。仕事人間の彼は家にいる時間が少なく、家庭に目配りが足りなかったのでしょうか。

 そこへ、オヤジさんの奥さんが「いつもありがとう!」と私たちに声を掛けながら入って来てオヤジさんに何かを手渡し、「どうぞごゆっくり」と爽やかな笑顔を残して帰って行きました。

 男が時に家庭を顧みず社会で戦うのは、妻や子のためでもあるのです。ですが奥さんとオヤジさんが交わした笑顔を見て、彼と「そのような男の思考や一方的な振る舞いこそが、家に残された家族を傷つけているのかもしれないな」と語り合いました。

 「家族を迎えに行く」。そう言って店の椅子から立ち上がった彼の後ろ姿から、哀愁が消えていました。

12

2011.05.28

とび職の定年退職

 45年間、一緒に仕事をしてきた社員が定年退職となりました。私の原点は鉄骨とび職であり、彼は私のパートナーとして、ともに会社を創業した一人です。

 高所が苦手の彼は「登らないとび職」と言われ、高所作業する私たちを地上から支えてくれました。彼や仲間と一緒に東京に出て、4畳半一間に4人で生活した時期には、工事現場から一足先に部屋に戻り、夕食の支度をするのも彼の役割でした。

 仕事が鉄骨の建て込みから木造に切り替わっても彼は3メートル以上の高いところには登りませんでしたが、浅草で買ったシルク風でピカピカの地下足袋を履き、「良いでしょ」と自慢げな顔でした。

 東京から一緒に上磯町(現北斗市)に戻り、会社の業態は住宅システムの研究開発へと変わりました。技術系や事務系の社員が増えましたが、住んで快適な家かどうかを試すには実験ブースが必要であり、彼はその装置の骨格を造るのが仕事になりました。地下足袋を履いたとび職姿で「現場が面白い」と言っていた彼。私たちの仕事は、彼のような下から支えてくれる人によって成り立っているのです。

 退職した彼は、足腰が弱りはしたものの時々会社に立ち寄り、赤ら顔のニッとした笑顔を見せてくれます。その笑顔は東京の4畳半で暮らした時代と同じですが、足元はスニーカー。どうやらとび職を完全に卒業したようです。

13

2011.07.08

家がほほ笑む

 住宅に関するイベントで、省エネと長寿命の断熱法などをテーマに講話をする機会があります。

 ある日、講話が終わった際、女性が近寄ってきました。夫婦で私の住宅相談会に参加したことがあるといい、記憶をたどるとかすかに覚えがあります。ご主人は高性能住宅を強く望んでいたようでしたが、奥さまは奇麗な外観の家に心を奪われていたようです。断熱性能などについての私の話を聞く様子はうかがえず、ご主人をせかして早々に帰って行きました。

 その後、夫婦が建築した家は断熱材の種類と使用法に問題があり、寒さや床の腐れなどで悩むようになります。女性は「あの時、断熱性能が重要と、もっと強調してほしかった」と訴えました。

 ご主人は亡くなり、今は娘と2人暮らしとのこと。リフォームの相談に乗ってほしいと求められ、彼女の家を訪ねました。建築から13年たち、美しかった外観も壁一面に内部結露が浮き出て、泣いているように見えました。仲間の工務店が大規模な断熱改善のリフォーム工事を行いました。

 家は繊細な生き物と同じです。リフォームした家に、施工した仲間と一緒に立ち寄ると、母親は「『快適』をありがとう」と笑顔で迎えてくれます。住む人の笑顔は、家の外観をもほほ笑ませるようです。

14

2011.08.19

茅葺屋根の家

 私は幼心に母の実家が茅葺屋根だった事を覚えています。家の中央に囲炉裏があり、その一辺が「横座」と呼ばれ、家の主人が座ります。横座で火種が途切れないようにまきをたくのが祖父の役目でした。

 気性の穏やかな祖父からは、とつとつと茅葺屋根の話を聞いた記憶があります。茅葺屋根は大量の雨水を抱え、夏の暑い時、水分を蒸発させ家の中を涼しくし、真冬はこの水分で乾燥を防ぎ、人の身体から体温を奪うのを防いで、暖かくすると。

 囲炉裏では天井からつった棒の先に鍋をぶら下げてお湯を沸かし炊事をします。子供たちは囲炉裏端にちゃぶ台を持ち込み、まきが燃える赤い火で顔を赤く染めながら飯を食い、勉強をします。

 この囲炉裏端でけんかしては仲直りの仕方を覚え、爺さん婆さんの昔話を聞き、父や母から自然にしつけられ、家族が一緒になって喜びや悲しみを分かち合った-というものでした。

 さらにまきの煙でいぶされれば、茅葺屋根も家も腐らず、ネズミや虫も出ないといいます。その祖父が亡くなり、囲炉裏は煙突の付いたストーブへと変わりました。それから間もなく、雨漏りが始まりました。

 祖父の朴とつで優しい面影と、日本の伝統文化は、時代の渦に消え去ってしまうのか。私たちの家づくりは、先人たちが培った茅葺の思想にいつまでもこだわりたいものです。

15

2011.09.29

さくらちゃんの幸せ

 「さくら」といえば、倍賞千恵子さんが映画で演じた、フーテンの寅さんの妹を思い出します。自由奔放な生き方の兄、寅さんの身を案じながらも家族を愛し、つましくも幸せだった「さくら」の人生に共感したものです。

 昨今は、仕事先でも「さくらちゃん」という名のお嬢さんと多くのご縁があります。いずれもかわいくて、聡明で、寅さんの妹と重なります。

 2年前に出張先の本州の工務店で出会ったお嬢さんも「さくらちゃん」です。大工さんの娘さんですが、何年か前にいろいろな事情で母親とは離別したといいます。お絵描きが大好きで人懐こく、私には飛行機の中の様子を興味深そうに聞いていました。

 彼女と久々に再会しました。既に小学1年生、学校帰りには父の職場に立ち寄るのだそうです。私の前で前髪を微風になびかせながら、ほっぺの片方にできた小さなえくぼが可愛らしく、はにかむように「今日も飛行機で来たの?」と聞いてきます。

 彼女の父親は、和室造りの名手といわれ、見事な匠の技を見せてくれます。夕日を浴びて帰路に就くさくらちゃんは、お父さんの小指をしっかりと握りしめています。ちらっと振り向いたうれしそうな笑顔が印象的でした。

 幸せになりますよ。そう、あなたの名は「さくらちゃん」だから。

16

2011.11.09

不登校の女の子

 デパートで背後から「会長!」と声を掛けられました。今どき、自分を会長と呼ぶ人は誰かと思い、振り返ると忘れるはずのない顔が。傍らに女の子を伴っており「娘さん?」との問いに、うなずきました。

 かつて子どもが通っていた中学校のPTA会長を務めていた時、苦悩に満ちた彼女の父親から相談を受けました。かわいかった娘は、毛髪はチリチリ、暴走族とつるみ、交通違反や暴行事件を繰り返し、おとなしくなったと思ったら、不登校で一歩も家から出てこなくなったというのです。

 私自身も粋がって生きた時期があり、決して褒められた少年時代ではありませんでしたが、書物で「非行とは才能が歪んで具現化する行動」との文章を読んだことがありました。

 彼女の両親や先生とも相談し、「彼女に大きな才能が潜在している」と説き、彼女を心から信頼し、優しく接するだけで、静かに見守ろうと誓い合いました。

 2週間後、彼女は普通の中学生の姿で登校し、先生や生徒から大歓迎を受けました。その帰り道、学校の隣の弊社に父親と一緒に立ち寄り、私の顔を見るなり「会長!」と駆け寄ってきました。彼女の瞳からあふれた涙は真珠のように見えました。

 あれから20年、娘の頭をペコンと押してあいさつを教える彼女の姿に、非凡な母親の才能を見た気がします。

17

2011.12.16

おまけの人生

 今年4月、95歳の母が旅立って逝きました。私が21歳、東京で独立するために家をたつ際、「行ってきます」と言う声を、かすかに震える背中で受け止めていた母。母は亡くなる数日前、「おまけの人生も、そろそろ終わりそう」と笑顔で語っていました。

 母は6人の子を育てました。男は私だけ。母は「おまえはおまけの子」だと言っていました。私も2人の男の子を育て、そこへ想定外の娘ができました。「おまけの娘」は2人の男子を産み、その後に、ひょっこりと孫娘を産んでくれました。

 東京に嫁いだ娘は、3人の子を北斗市の実家で出産しましたが3人目の時は、2人の男の子を連れての帰省となります。3人目ともなると家の中はまさに大混乱の様相に。でも「おまけの娘」がいなければ体験できなかった至福の時でもあります。

 私も鉄骨とび職を皮切りに、全国200社もの工務店仲間が出来ました。個人的には5人の孫にも恵まれ今、「おまけの孫娘」を抱き、女の子とは、こんなに柔らかく、こんなにいとおしいものなのだと気付いた自分がいます。

 「おまけの娘」もやがて巣立つ息子や娘を背中で送り、「おまけの孫娘」もいずれ子を産み、その子をまた背中で見送るのか。背中で見送った子や孫達、いつしかは成長し「豊かなおまけの人生」を分けてくれるのか。時代は違うと言われそうですが。

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